その時初めて「俺がしゃべってる声はこういう声なんだ。」って思ったんだよね。
MINORITY-NET(以下M):一番最初の音楽との出会いは?
YOU THE ROCK★(以下Y): 5歳の時、うちの街にNHKのど自慢が来て、それに出て「夕焼け小焼け」を歌ったんだよ。何だか知らないうちにステージで歌わされてて、歌い終わってステージから降りて来たら、ステージの下で「はいっ!」って何か渡されて、何だろうと思ったらレコードだった。その場で録音したアセテート盤でさ。要はDUB PLATEだよね。だから、それが生まれて初めてのレコーディング。
で、家に帰ると両親がそのレコードを聴くんだよ。どう考えても俺が歌ってるんだけど、何か別人みたいに聴こえてさ。その時初めて「俺がしゃべってる声はこういう声なんだ。」って思ったんだよね。子供の頃にみんな体験すると思うけど、自分が思ってた声と実際の自分の声が全然違って「マジかよー!!」みたいな感じで、何だか恥ずかしくて、そのレコードはいつもターンテーブルの下に隠してた。聴けないようにってわざと汚してみたり。これが最初の音楽体験だね。
それが自分にとって初めてのHIP HOPだったね。
M:音楽に興味を持ち始めたのは?どうやってHIP HOPにハマって行ったのですか?
Y:小学校4年生の頃、「横浜銀蝿」のマイブームがやって来たんだけど、周りは誰も銀蝿とか聴いてなくて、クラスでは俺しか好きじゃないわけ。それでも、背中に「横浜銀蝿」って金刺繍してあるスカジャン着て、キャッツアイのサングラスかけて、当然クリームソーダの財布を持ってね。そうしてる間にロックンロールが好きになって、レコードとかを買い始めた。バディー・ホリーとかエルビスとかね。そうやって音楽を聴いてるうちに、「音楽と、そのファッション」っていうものにハマって行ったんだよね。
その少しあと、5年生か6年生の時に、風見慎吾さんの「涙のTAKE A CHANCE」って曲が出て、そのバックダンサーがCRAZY-Aさん達、要はROCK STEADY CREWだったんだけど、それが自分にとって初めてのHIP HOPだったね。それで中学になってラジオの深夜放送とかを聴き始めて、そこでHIP HOPらしき曲を聴くようになって、だんだんそれが耳に残るようになって来たんだ。「これはおしゃべりなのか?音楽なのか?」って意識し始めたところから、どんどん興味が湧いて来たんだよ。
そして86年にRUN D.M.Cが来日したんだ。初めて観たのはテレビで、その頃やってた「11PM」って番組の、藤本義一さんと村上里佳子さんが司会してた「月曜イレブン」にライブしに来たんだよね、RUN D.M.Cが。ちなみにその前の週はFISH BONEが出でたんだけどね。RUN D.M.Cをテレビで観た時、「何やってんだろ、この人達。テレビなのにジャージで出てるし、靴ヒモ通ってないし、威張ってるし。」って感じで、特にJAM MASTER JAYなんて何やってるのかさっぱり解んなかった。
でもまたその少し後に、今度は雑誌の「宝島」にBEASTIE BOYSの来日記事が載ってて、スケボーとHIP HOPが一緒になって俺の中に入って来たんだ。そこからは突っ走ったね。まさに「走り出した」って感じ。HIP HOPにハマったきっかけだね。
今までの経験や学んで来たことが、ここに来ていっぺんにリンクしたんだよね。
Y:そこからはRUN D.M.CやBEASTIE BOYSやKURTIS BLOW、所謂OLD SCHOOLを聴きまくった。でも当時はレコードも全然なくて、シスコでもHIP HOPのコーナーはたった1マス分しかないわけ。その上、新譜もなかなか入らなくて、毎週チェックしに行っても「まーたWHODINIだよ。」みたいなね。
もう本当に超OLD SCHOOLしかなくて参ったなぁと思ってた頃に、ちょうど日本でもラップする人たちがいることを知って、メジャー・フォースあたり高木完さんとかいとうせいこうさんとか藤原ヒロシさんとかを聴き始めた。そこで日本語ラップにハマって、「俺はいつかRUN D.M.Cを大声で歌いたい!」って思って。それがきっかけでラッパーになろうと思ったんだよね。ま、発想は「王様」スタイル?「QUEENを日本語で歌いたい!」みたいな。
それで、そこからは韻の踏み方とかトピックとか、起承転結を考えなきゃとか意識したりしてね。でもまぁ無理矢理作ってたんだよね。でもちょうどその頃、18歳の時にターンテーブルとドラムマシーンとMTRのセットを買っちゃって、それを払わなきゃならないから成田空港でバイトしてたんだよね、公安の。当時はまだ成田空港建設の反対派のテロとかがあって、車が爆破されたり、燃やされたり、そういうことがしょっちゅうあって、そこで右翼と左翼ってものを学んだんだよ。
それから、そこでは外国人とも出会ったんだけど、例えば韓国人の人たちの話の輪に入りたくても入れてもらえなかったり、時には差別されたりしてね。そういうことも目の当たりにしてた。その時に、俺が聴いてるPUBLIC ENEMYとかB.D.P.とか、子供の頃に読んだ「アンクルトムの小屋」とかを思い出して、「あれ?」とか思い始めて。小学校の時、担任からクラスのみんながマルコムXの伝記を持たされてて、読んでいたりもしたし。そういう今までの経験や学んで来たことが、ここに来ていっぺんにリンクしたんだよね。CHACK DやKRS ONEが歌ってる問題意識みたいなことも、「俺もこれ知ってるじゃん。」と気がついたんだ。「俺はのんきな日本人じゃないじゃん!」みたいなね。で、そこからは「真面目にやらなきゃ。」と思って、真剣にどんどんHIP HOPにのめり込んで行ったんだ。
RINOの家で話し合って、「じゃあさ、覆面被って出ようぜ。」ってことになって。
M:ラッパーとして活動し始めた頃の様子は?
Y:TWIGYとかMUROくんとか当時からライブをやってたんだけど、その頃はライブをやっても誰もお客さんとか来ないわけ。客が俺ら身内、みたいな。RHYMESTERだったり、キミドリだったり、スチャダラパーだったり、KRUSH POSSEだったり。ただライブする人とお客が入れ替わってるだけ、みたいなね。
で、バブルが始まる頃だったから外タレが人気で、日本人のラッパーなんて相手にされなくて、ライブで瓶とか缶が飛んで来たの。外タレの前座とかやると、「早くメインアーティストを出せ!」みたいになってさ。(笑)いろんな前座をやらせてもらったよ。
HOUSE OF PAIN、RUN D.M.C.、NAUGHTY BY NATURE、CYPRESS HILLとか、そのころの来日HIP HOPアーティストの前座はほとんどやらせてもらった。
でも一番辛かったのは、BOO-YAA TRIBEとGETO BOYSの時だね。後楽園ホールでやったんだけど、客が3列しかいないの。しかも最前列は全部身内。大晦日だったんだけど、隣の東京ドームではMICHAEL JACKSONがコンサートやっててさ。「もうどうする俺ら。金もねぇし。」みたいになったよね。
で、まぁ冬の時代を迎えつつ、そのフラストレーションを爆発させるのが「BLACK MONDAY」のイベントだったり、「浅ヤン」の企画だったりしたんだよ。「浅ヤン」の企画って言うのは、BEASTIE BOYSが来てラップコンテストが開催されるってことだったんだけど、俺たちは「テレビの企画だし、このままじゃきっとテキトーな奴が優勝させられる。」って思って、RINOの家で話し合って、「じゃあさ、覆面被って出ようぜ。」ってことになって。
36人だか38人だかで出たんだけど、その時楽屋で6時間くらい待たされたけど、その間、全員覆面のまま(笑)。
そこにはE.G.G.MANもALGもMUMMY-Dもいたし、雷はもちろんいたし、まぁBLACK MONDAY CREWと言うか、大所帯で行った。それで何とかやっつけてやろう!みたいなね。
アンチって言うんじゃないけど、とにかく文句が言いたかったんだね、勝手に作られてるHIP HOPのシーンに。で、そこから日本のHIP HOPシーンも加熱して行ったんだ。そしてその後、「さんぴんCAMP」の時代になって行くんだよ。
中編へ続く・・・
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