第2節 伝統の復活
「ラップ」という音楽のスタイルが生まれたのと同じ時期、経済的にも物理的にもアメリカ主流文化から隔離されていたブロンクスやハーレムのゲットーでは、その限定された環境の中でもなんとかやっていこうという独自の態度を様々な形で表現しようとする機運が生まれていた。 ペンキのスプレー缶で絵を描くグラフィティ・アートや、より複雑でアクロバティックなダンスを競うブレイクダンス、スニーカーやカジュアルウェア、スポーツウェアをいかにクールに着こなすかという新しいセンスのファッションスタイル、そしてDJクール・ハークが生み出したブレイク・ビーツ。
こうした新しい表現のスタイルはゲットーの若者達が互いに競い合い、刺激しあう中で発展してきたものであり、その中から、限られた選択肢、限られた条件でも新たに創造するという前向きな態度が育まれた。ビルの壁や地下鉄の車両がキャンバスになり、皆が履いているスニーカーが最新流行のファッションスタイルとなり、家にあった両親の古いレコードが2台のレコードプレイヤーとミキサーを駆使することによって自分達独自の音楽に生まれ変わった。NYのゲットーから生まれたこのような新たな価値観、新たなスタイルは、”ヒップホップ・カルチャー”と総称されるようになる。
ラップもそうした活発な競争の中から一つの音楽のスタイルとして確立されてきた。最初はDJ自身が喋っていた、場を盛り上げるための韻を踏んだフレーズや、聴衆とのコール・アンド・レスポンスのやりとりを専門のMC(マスター・オブ・セレモニー)が受け持つようになり、そこから発展してMC達がブレイク・ビーツに乗せた自作のライムを競い合うようになったものである。ラップという、音楽のリズムにのせて喋るという形態の楽曲自体は黒人文化においては決して新しいものではない。ジェームス・ブラウンやアイザック・ヘイズのようなソウル・アーティストや、古くはボー・ディドリ-やルーファス・トーマスのようなリズム&ブルース時代のアーティストも同様の手法を使った曲を発表している。しかし、その根源はもっと基本的な、黒人達の日常会話の中に存在する性質そのものである。
黒人の口承文化の研究家であるロジャー・D・エイブラハムの70年代のエッセイによれば、『ラップ』とは言葉を巧みに使った言い回しであり、いかに無理のない自然な言葉、技巧を用いてウィットに富んだ独自の言い回しをするかを競う『ラッピング』は黒人の日常生活のあらゆる場面で行われ、それに優れている者は人々から尊敬されたという。さらに、そのルーツはアフリカ大陸にまで遡れるとして、ジョン・ブラッキングのアフリカ文化研究『ヴェンダの謎々の社会的価値』から引用している
「ヴェンダ族では、地位を決定するのは年齢と身分であるが、そこからさらに出世する方法はわずかしかない。 ....最大の栄誉は、単語とか文章を巧みに使える人、あるいは、様々な歌詞を知っているか即興で作詞できる人、あるいはさいころを振って祭文を早口で唱えられる人に与えられるようである。.......言葉の知識、形式ばった言葉の知識は呪術的な力である。この知識が強い印象を与える場合が多いので、呪術的な力を実際に用いる必要はない。」
(ロジャー・D・エイブラハムス「黒人の話術」 J・F・スウェド編『ブラック・アメリカ』所載 73年 研究社)
つまり、こうした性向がアフリカ起源の伝統である口承文化の一部として黒人文化の文脈に昔から存在していたのである。黒人文化におけるバッドニガー説話を語る形式である『トウスト』や、お互いの母親の悪口を言い合って、いかに平静を保って相手を言い負かしてやりこめるかを競う言葉遊びである『ダズンズ』などはそのような文化的性向から生まれてくるものであり、黒人ラジオのパーソナリティ・ジョッキーの躁病的な独特のスタイル(ジャイブ・トークとも呼ばれる)も同様である。
ヒップホップにおけるラップも、そうした黒人文化の伝統に基づいたものと考えられる。現在の『フリースタイル』という、ラッパー同士が互いに即興でラップする能力を競い合うという形式は過去の『ラッピング』や『ダズンズ』の伝統にそったものであるし、ストーリー性を持つ『トウスト』的なスタイルのラップも一般的である。 また音楽的に、その言葉をブレイクビートのリズムに乗せるやり方や特徴的な言い回しといったラッパーのスタイルにオリジナリティが要求されるという点についてや、コール・アンド・レスポンスのやりとりなどは、黒人音楽の本来の伝統を甦らせ、受け継いでいる。
ラップを最初にレコード化したのはクロスオーバー志向の大流行によって音楽業界から弾き出されていた黒人音楽専門のインディーズレーベルの古株達だった。常に黒人社会との接点を持ち続けていた彼等は自分の子供くらいの若者達の間でのラップの人気を目の当たりにして、少ないビジネスチャンスに賭けたのであった。初期のラップレーベルである、エンジョイ、ポール・ウィンリーはハーレムの50年代リズムアンドブルースの時代からの生き残りであり、ニュージャージーのシュガーヒルは元ソウル・シンガーのシルヴィア・ロビンソンが夫と60年代から経営するローカルのインディーズレーベルであった。
1979年にシュガーヒルから発売されたシュガーヒル・ギャングの『ラッパーズ・ディライト』が200万枚の売り上げを記録したのをきっかけにブロンクスやハーレムのクラブなどで活躍していたラッパー達も次々にインディーズレーベルからデビューした。そうして拡大していくラップ人気から、ラジオにおいても最初のラップ番組が登場する。ネルソン・ジョージによれば、
「いわばパーソナリティ・ジョッキーの時代への逆戻りだった。騒々しい司会者がショーを盛り上げ、リクエストを受け、リスナーの好きなお決まりのフレーズで満たした。 ......番組は、その聴き手が共有していた、ますますアンダーグラウンドになってゆく共同体の感覚を反映していた。番組はストリート的雰囲気に満ち、若々しく、反メロディーといえるほど徹底的にリズミックだった。」
(ネルソン・ジョージ 『リズム&ブルースの死』 ’90年 早川書房)
こうした番組を放送し始めたのは小規模なラジオ局であったが、その人気からクロスオーバー・マーケティングを最も積極的に行っていたNYの WBLS という黒人ラジオ局がラップ番組を開始するに至り、クロスオーバー以前の、黒人聴衆とインディーズレーベルと黒人ラジオ局の密接な関係が復活したのである。
80年代初期、ラップの人気は拡大し続けていたにもかかわらず、クロスオーバー路線に囚われていた大企業レコード会社はラップに懐疑的だった。人種統合思想や上昇志向とはまったく無縁なラップやそのファン層は、彼等にとっては社会的害悪でしかなく、理解不能な存在だったのである。こうした状況がデフ・ジャムやトミー・ボーイのような若いスタッフ中心の新興ヒップホップ・レーベルに活躍の場を与えることになる。
こうした新興インディーズレーベルのラップ・レコードはことごとく成功し、100万枚規模のレコード売り上げやライブへの数万単位の動員を記録して音楽業界の一大勢力へとなっていった。ラップが経済的に発展していく一方で、音楽的にも目覚ましい発展を遂げ、シンセサイザーやドラムマシーンなどの最新の音楽テクノロジーを導入することでラップ専用の演奏が組み立てられるようになり、ラップ自体もその内容やスタイルにおいてますます多様化していったのである。
ラップの主題となる対象は都市の若い黒人の生活のあらゆる側面に及ぶようになり、その多様な性格は一つのジャンルとしてまとめるには無理があるほどである。クロスオーバー志向によって、大企業レコード会社からのメインストリーム向けの音楽が多くの黒人達の生活からかけ離れてしまったものになってしまっていたのに反し、ラップは黒人の若者達の生活に密着し、アフリカ音楽文化のファンクショナル・ミュージック(機能音楽)としての伝統的性質をブラックミュージックに復活させた。
グランドマスター・フラッシュ&フューリアス・ファイブの『ザ・メッセージ』は、希望のないゲットーの現実を最初に歌った80年代初期のプロテスト・ラップである
ガラスの破片があちこちに飛び散り
階段に小便をかける奴がいても
誰も気にしやしない
悪臭にも騒音にも耐えられない
抜け出す金もなく、どうしようもない
玄関にはネズミ、裏口にはゴキブリ
路地にはバットを持った麻薬中毒者
逃げ出したくても遠くには行けない
車はレッカー移動されちまった
押さないでくれ 限界ぎりぎりで
なんとか生きようとしているんだ
ここはまるでジャングル オレに思わせる
どうやって落ちぶれずに
生きていられるだろうかと
( Grandmaster Flash & Furious Five "THE MESSAGE" -E.Fletcher S.Robinson C.Chase M.Glover - 1982 SUGARHILL Records )
第5章3節へ続く・・・
ページトップへ