第1節 ゲットー・スタイル
「サクセス黒人地区の出現はアメリカにおける黒人中流クラスの台頭を反映している。
1964年に公民権法が成立して以来、黒人の間では専門職の比重が高まり、学歴も向上したことから、黒人が圧倒的に多いアッパーミドルクラスの居住区が形成された。今日、この地区は都心部から離れたところに家を持ちたいと願う黒人の成功者やインテリたちが目指す地域になっている。こうした特色のあるコミュニティで住民は、高学歴(大学進学率が34%)、人もうらやむ給料(年収3万5千ドル以上が47%)、そしてレンガ造りの住宅(価格8万ドル~15万ドルが27%)を誇っている。『勤勉と規律さえあれば、肌の色とは関係なく成功が約束される』ーこれがこの地区の価値観である。」
(マイケル・J・ワイス 『アメリカンライフスタイル全書』岡田芳郎 訳 88年/日本経済新聞社)
これはマイケル・J・ワイスの『アメリカライフスタイル全書』における黒人中産階級の居住区についての説明である。彼等は生活や価値観など全ての面において同じクラスの白人と変わるところがない。このクラスの全黒人の内で占める割合は70年で23.8%、90年で29.5%であり、今日言われている黒人問題、例えば貧困、高犯罪率、ドラッグの蔓延、黒人ギャング、低学歴、片親家庭の増加などとはほとんど無関係である。
それ以外の7割の黒人がそのような問題に直面しているのであり、その過半数は社会経済的に最下層に属し、都会のゲットーに住んでいる。黒人問題の現場から離れている黒人中産階級はそうした状況の切実さを認めていない。
白人中心の主流文化に同化することを望んでいる黒人中産階級にとって、重要なのは同化への個人個人の努力であり、ゲットーの黒人はそうした努力を怠った落伍者にしか写らない。そこでは民族的アイデンティティなどたいして重要な問題ではないのである。
人種統合という理想を追い求める人々が目指す最終的な目標とは、ユダヤ人学者のネイサン・グレイサーが、64年に書いたような、「アメリカという、たった一つのコミュニティーしか存在しない世界であり、伝統、民族の違い、宗教、人種などはさして重要でない偶発的な特性でしかない」というような現実には存在し得ない世界である。黒人中産階級がいかに人種の統合を求めようと、最終的にはアメリカ社会全体がそれに従わないかぎり実現不可能な他力本願にならざるをえない。こうした理想でしかない世界を目指した結果が、黒人の階級的分裂であり、クロスオーバーによる黒人音楽の弱体化だったのである。
ゲットーの貧困層に属する黒人達にとって、人種統合という理想を追いたくてもその機会を生かせる状況にはなかった。そうすることが困難な状況で人種統合を目指すということは、自らの存在を否定的にしかとらえられないことになってしまう。60年代後半の、民族主義を唱えたブラック・パワー・ムーブメントはゲットーのそうした状況に対する反応であった。バッド・ニガー説話のヒーロー達が黒人文化の文脈において賞賛されるのも、アイデンティティの危機にさらされる現状に対する適応なのである。
クロスオーバーの幻想に囚われたメジャー・レーベルやラジオ局からの音楽は、ゲットーの黒人にとってもはやかつてのように自分達の生活に馴染むものではなくなっていた。クロスオーバーが想定するマーケットからは外れたゲットーの黒人社会には音楽の真空状態が発生していた。
「今から考えると、ラップ、もしくはそれに似たものが登場することが予言されてもしかるべきだった。第2次世界大戦以降10年ごとに、黒人ダンス音楽に対する何らかの新しいアプローチが出現しているのだから。40年代にはリズム&ブルースが、50年代にはロックンロールが、60年代 にはソウル、70年代にはファンクとディスコが、それぞれ登場した。80年代にも何かが現れるはずだった。」
(ネルソン・ジョージ 『リズム&ブルースの死』 ’90年 早川書房)
と、ネルソン・ジョージが指摘しているように、その音楽の真空地帯にまったく新しいスタイルの音楽が生まれたのである。その起源は1970年代、ニューヨーク市の5つの区の中でも”アメリカ最悪のスラム街”、”都市腐敗の縮図”、”絶望の街”、”ゲットーの中のゲットー”などと呼ばれることもある、ブロンクス区に求められる。
黒人が都会に移ってきた当初から、レコードを持ち寄って開くホームパーティーは手軽な娯楽として一般的であったが、クロスオーバーの時代、ゲットーの音楽の真空状態を埋めるものとして一層盛んに行われるようになった。当時、ディスコの大流行で一般的になった、レコードプレイヤー2台をミキサーに繋いで曲を途切れさせることなくかけ続けていく方法がゲットーのホームパーティーにも持ち込まれ、クロスオーバー志向では「黒すぎて」プレイリストから外されるような曲がプレイされていた。(ジェームス・ブラウンがその代表格)
そこにジャマイカからの移民であるクール・ハークというDJが革新をもたらした。
ゲットーの黒人聴衆の好んだダンス向きのブラックミュージックではブレイクと呼ばれる、歌の1番と2番のあいだなどの楽器演奏だけのリズミックなパートがあり、その部分にくると1曲の中でもダンサー達が一層激しく盛り上がるのだった。しかし、大抵そのブレイクの部分は短かったので、ハークは同じ曲のレコードを2枚使って、2台のレコードプレイヤーでそのブレイク・パートだけを交互にかけ続けてブレイクを引き延ばすという方法を編み出し、ゲットーの聴衆達に熱狂的に受け入れられた。
今ではブレイク・ビーツと呼ばれているこの手法は、クール・ハークが名付けたものであり、これに熱狂する聴衆はB(ブレイク)・ボーイズと呼ばれた。さらにハークは曲をかけながら、マイクをとうしてかつてのラジオの黒人パーソナリティDJのような韻を踏んだスタイルで聴衆に語りかけ、コール&レスポンスのやりとりで会場を盛り上げた。
ハークの故郷であるジャマイカでは以前からニューオーリンズなどのアメリカ南部沿岸都市のラジオ電波が届いており、アメリカの黒人ラジオのDJスタイルはジャマイカの黒人音楽であるレゲエのディスクジョッキー達にも影響を与えていた。
また、自前の音響設備での野外ディスコで、その大音量や、独自のエンターテイメント性を競うというようなサウンドシステムの文化が盛んだったジャマイカでは、DJ達もただ曲をかけ続けるだけでなく、マイクを使って場を盛り上げ、さらにはレコードの歌抜きのインストゥルメンタル・バージョンに乗せてDJが韻を踏んだ”トウスト”と呼ばれるおしゃべりをするという独特のスタイルをすでに発展させていた。
そのようなジャマイカのDJスタイルをアメリカに持ち込み、「ハーキュロイド」と呼ばれた当時の最強サウンドシステムとともに、ブロンクスの1520 Sedgwick Avenueにあるビルディング(今ではヒップホップ発祥の地としてアメリカ議会からも認定された)で開かれていたパーティーから、ヒップホップ・カルチャーが生まれた。
こうしたクール・ハークの革新的なDJのスタイルはたちまち街の評判となり、ブロンクス区のみならず、ニューヨーク市5区中の黒人街に噂は広まり、ハークのDJスタイルの後続者達が次々にあらわれた。彼等がパーティーでミックスしたブレイク・ビーツと、それにのせて韻を踏んだライム(マイクの役割を専門に受け持つMCがすぐに加わるようになった)を録音したカセットテープはダビングされて街中に広まり、ニューヨークのあちこちで当時普及していた大型のラジカセで鳴らされ、音楽の真空地帯にあったゲットーの若者達を魅了した。
Kool Herc @ Bronx / 1520 Sedgwick Avenue in 70's
ブロンクスを案内し、70年代のパーティの模様を撮ったフィルムを見せるクール・ハーク。(1984年)
第5章2節へ続く・・・
ページトップへ