第2節 奴隷時代の宗教歌
アフリカ音楽が奴隷制下のアメリカの状況に規定され、変化・変容してアメリカ独特の音楽になっていったワークソングやフィールド・ハラーなどの世俗音楽の場合とは違い、宗教音楽であるスピリチュアルやシャウトが生まれてきた過程はより複雑である。
その理由は、白人のキリスト教の賛美歌をもとに発展しためであり、ヨーロッパ文化の影響が強いためである。しかし、ゴスペルなどの黒人のキリスト教宗教音楽にはアメリカの奴隷制のもとで、黒人によってしか生むことができなった、アフリカ音楽の伝統を持つ音楽であることははっきりしている。
黒人がキリスト教賛美歌を歌うようになるのは、黒人がキリスト教を信仰するようになったからである。
黒人を人間以下の存在である見なしていた白人達が黒人にキリスト教を布教するようになるのは19世紀初頭であるが、それ以前から黒人奴隷達は自主的にキリスト教を信仰していた。
全人類の生活と運命を支配する諸神の力を信じる、というアフリカの宗教観を持つ黒人が、アフリカ式の宗教・儀式を禁止されたため、その代用として白人の信仰するキリスト教を取り入れたのである。
アメリカの南部ではごく最近まで見られたキリスト教のアフリカ的呪物崇拝との混合した祭儀がそれを物語っている。
さらに、白人に支配されるという不条理な状況を白人の神がアフリカの神よりも強かったからだと考えることで、キリスト教を信仰するようになったとも考えられる。アフリカでは征服者の神はこれを強い神として畏怖し、従来信仰してきた神々のなかに加えるという伝統が存在するのである。
その一方で、奴隷所有者達は奴隷のキリスト教信仰に反対であった。黒人が異教徒ではなくなるということは黒人を人間として見なさなければならないことになり、奴隷制を正当化する根本の理由がなくなってしまうからである。 しかし、クェーカー教徒などの奴隷制廃止論者たちが反対を押し切って奴隷へのキリスト教布教を行った結果、キリスト教徒となった奴隷達が以前よりもおとなしくなり、逃亡や反抗をしなくなったのを見て、奴隷のキリスト教改宗に積極的になったのである。
これはキリスト教が、昔から迫害され、虐げられたものの宗教だったことにも理由がある。「現実の生活を耐え忍べば、来世で約束の地にたどり着ける」という教えは奴隷に苦痛や困窮を耐えさせる鎮静剤として作用し、奴隷使用者にとって都合の良い奴隷倫理となったのだ。
本来アフリカの宗教は、祭儀舞踏と儀式の歌が欠かせないものであり、宗教的陶酔と熱狂をもたらす激情的宗教である。
こうした宗教の性質はキリスト教改宗後にも黒人達は手放さず、強く残った。
古来からのアフリカの金言である「歌無くして霊の降臨なし」という言葉がそのまま黒人のキリスト教礼拝法の精神となっていることからもわかるように、改宗後もキリスト教にアフリカ式の宗教の形態をそのまま持ち込んだ。
黒人達にとってアフリカ式の宗教はたとえ禁止され、キリスト教に改宗したとしても捨てきれるものではなかった。そのことはアメリカ南部に最近まで残存したヴードゥー(アフリカ原始宗教)や、改宗した黒人の多くが、その礼拝の性質や儀式の形態にアフリカ式宗教との多くの類似点が見いだせるメソジスト派やパブティスト派といった宗派に集中していることからも明らかである。
また、黒人の間で今でも存在する迷信やことわざ、警句金言の多くはアフリカの宗教思想の影響を持つものなのである。この点について、アーネスト・ボーンマンは次のように述べている。
「メソジストの『信仰復興特別伝道集会』による布教活動は、奴隷を対象とするようになったが、その結果は、アフリカ人をキリスト教に改宗させるのではなく、あべこべにアフリカ式祭儀を広める結果となった。」
(リロイ・ジョーンズ 『
ブルースの魂
』 上林澄雄 訳 65年/音楽之友社)
つまり、アフリカの宗教的伝統がキリスト教という形をかりて存続されたのである。
そうなれば、当然音楽は欠かせないものになる。白人の賛美歌が黒人達の好む歌い方のアレンジされて歌われたばかりでなく、アフリカの祭儀音楽もキリスト教に適うように変形させてよく使われた。
その典型的な例として『スウィング・ロー・スィート・チャリオット(揺れるよ幌馬車)』を挙げられる。
そのメロディがアフリカにも存在するばかりでなく、その歌詞の内容の原型となる伝説もアフリカに存在するのである。その伝説が英語に翻訳され、キリスト教思想にあうように変形されて現在ある形となった。そうして生まれてきたのがスピリチュアルである。
そのような歌が歌われる黒人教会の礼拝において黒人牧師は説教をするばかりでなく、音楽を司る歌手でもあった。黒人教会における牧師のリズミカルな説教は有名であるが、そこにコール・アンド・レスポンスと呼ばれる、演者が呼びかけ聴衆がそれに答えるというアフリカ式の音楽技法が持ち込まれた。
その応答を繰り返す中でやがて狂熱状態へと入っていき、それがカタルシス(浄化、鬱憤を晴らすこと)となるのである。アフリカの宗教には舞踏もまた欠かせないものである。白人の教会では舞踏とは単なる世俗的な娯楽でしかなく、宗教に反するものとされていたため、黒人は控え目に両足交差させることでそれに対応した。そうして生まれたのがシャッフル・シャウトやリング・シャウトと呼ばれるものである。
次の引用は多くの黒人音楽研究書において言及されている、黒人教会の礼拝の模様を伝える「The Nation」誌(1867年5月30日号)の記事である。
「堅苦しい儀式がすむと、ベンチを壁のほうに押しやり、老若男女、めかしこんだ青年、奇怪な半裸の農場労働者 ー 女性は頭に派手なハンカチを巻き付け、スカートは短い ー それに汚れたシャツに大人用のズボンをつけた少年、裸足の少女、みな会堂の中央に出て来て、スピリチュアルが始まると歩き出し、やがて誰からともなくシャッフル(すり足)になり、輪を描き始めた。足はほとんど床を離れず、おもな動きはギクシャクした運動で、これがシャウトの歌い手を興奮させ、発汗させる。ある時は黙って踊り、ある時はスピリチュアルのコーラス部を歌ってシャッフルのステップを使い、また一斉に歌の部分を歌うこともある。しかし、大体からいえば、最上の歌い手とくたびれた叫び手からなるバンドが会堂の一端に位置を占め、歌の大部分を歌い、両手をあわせたり膝を叩いたりして、舞踏を伴奏するのである。
歌も踊りも極度に精力的で、シャウトが真夜中頃まで続くときは、単調にザッザッと繰り返す足音が響き渡り、礼拝堂より半マイル以内の近隣のねむりを妨げるものである。」
(フィル・ガーランド 『
ソウルの秘密
』 73年 音楽之友社 )
この記事により、音楽と舞踏が一体となった当時の黒人教会の礼拝の模様がよくわかるのと同時に、黒人奴隷達にとって黒人教会が社交場的な存在であったことが窺い知れる。白人の主人の監視を離れ、黒人奴隷が人間らしい活動を許された唯一の場は教会だったのである。奴隷解放後も黒人用社交場も遊び場もなかった間は、教会が黒人のあらゆる社会的、社交的活動の中心であり続けた。こうした状況が、黒人の宗教音楽を発展させた要因であったのである。
しかし、いかに社交場的な存在であったとはいえ、黒人教会が無制限な社交の場であったわけではない。一般に、黒人教会を運営する組織の上層部は早くからキリスト教に改宗させられていたハウス・ニグロ、つまり白人家庭に住み込みで召使いとして働く黒人奴隷が占めていた。白人に忠実で、白人的価値観に追従することに最も熱心な黒人であった彼等は、教会にアフリカ的要素の強い歌や踊りを持ち込むことを嫌い、より白人教会に忠実に近づけようとする傾向にあった。
もともと白人の手本に習った教会の組織は階級的なものであったが、奴隷である黒人が一堂に集まる場であったとはいえ教会である以上、同じような階級制がすべての黒人にも適用されるようになっていき、約束の地での自由のために集まる黒人教会が、やがて黒人の間での階級制を定める中心となっていき、白人社会への盲目的模倣を目指すシンボルのような存在へとなっていくのである。
第2章第3節へ続く・・・
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